数年前、ある工務店の親父さんの話を数ヶ月にわたって聞きつづけたことがある。昭和二十六年、集団就職で新潟県から上京し、苦節三十年ほどで年商数十億円という工務店を経営するに至った、つまりは立志伝の聞き書きである。
ただ、私には彼が上りつめていく過程よりも、中学を卒えてから弟子入りしたという左官業での体験談のほうが、興味深かった。
その左官屋時代。昭和四十三年、「あの」岡本太郎の依頼によって、造花をイメージした数メートルの像を作った。レンガで型を組み立て、そのうえに左官の鏝(こて)でセメントを塗っていく。
「うるせえオヤジでさ。あーでもない、こーでもないって、付きっきりで注文出しやがるんだ」
そんな芸術家の感性に対抗し、見事な曲線や膨らみを表現できたことは、しかし、彼の自慢でもあるようだった。
その二年後、大阪万国博覧会の会場がテレビに映し出されたとき、はっと息を呑んだ。あの造花の化け物のような立像が、さらに巨大化して立っているではないか。微妙に意匠は変えていたが、見れば見るほど似ていた。
というようなことを思い出したのは、岐阜県にある鏝を製造・販売する会社の社長、スズキさんと話をしていたからである。もう四十代も後半だから若社長というわけではないが、それでも昭和の初めに創業された店のイメージからすると、若い。
年齢四十代、小太り、口ひげあり。自ら「不審者と間違えられる」という。
「いわゆるコテを専門に扱っている店というのは、全国的に少ないんですよ。金物屋さんが、ついでに扱っているところはありますけどね。東京で二軒、名古屋に一軒、岐阜、大阪に一軒ずつ、それぐらいじゃないかなあ」
左官における鏝である。誰でも、一度は見たことがあるだろう。いや、もう、ほとんどないか。
将棋の駒を長くしたような鉄板に、木製の柄がついていて、この鉄板部分にセメントを乗せ、壁に塗っていくわけである。
これが最も一般的な左官屋の鏝だ。
ただ、スズキさんから頂いたパンフレットを見ると、実に様々な形状と大きさの鏝があるのが分かる。長方形、三角形、ハート形ぐらいは想像もつくが、タイルの目地といって細い溝の部分にセメントを塗る目地コテなどは、細い棒に柄がついた形なのである。見たことも聞いたこともなかった。
「もう、何十年も前から左官仕事というのは減っていく傾向にあるんです。工期を短くするには、ツーバイフォーなどで、パンと壁つけて断熱材詰めていく。左官の腕の見せどころだった風呂場もユニットバスですしね」
スズキさんのところでは、いま職人さんが三人いて、営業などの外回りは社長である彼が担当している。
「僕は、もう何年も昇給なしですよ。ボーナスもない。ヘタしたら、コテ屋の売上では職人さんのボーナスも出せないかもしれない」
月に十日間から二週間近く、ルートセールスで愛知、岐阜、滋賀、三重といった土地の得意先を回る。富山の薬売り風に、欠品をチェックして、足りなくなった物は後ほど発送する。ひたすら頭を下げて回る毎日である。
そして、月の半ばで、だいたい鏝屋の仕事に区切りがついたところで、もう一つの仕事に打ち込むことになる。
小説家、鈴木輝一郎として日々パソコンに向かい、ひたすら原稿を書く生活である。
☆
「小説家になろうなんて、まったく考えてませんでした。何か取り柄の一つでもないかなあと思いつづけた青春時代でしたから」
実家は岐阜県大垣市にある。高校時代まで、ここで暮らした。
とにかく、出来の悪い子どもだったという。勉強はできない、スポーツもダメ、友だちとの協調性もない。高校に入学した後も、かろうじて理解できるのは現代国語だけだった。
教室にいて、教科書の下に隠した小説、それも細切れに読むため短編集中心の文庫本に読み耽っていた。筒井康隆、フレドリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリなどなど。
何とか東京の私立大学に入るも、けっして真面目な学生ではなかった。四年生になっても就職先は見つからず、どこでもいいからと受けて入ったのが、テレビゲームの製造販売をする会社であった。
ここでは、いろいろな部署を回された。営業企画、営業開発、店舗開発……。本社に行かされたり、現場に移されたり、五年間で辞令を十五枚もらった記憶がある。
「単に、どこに行っても上司との折り合いが悪かったからなんです。それはそうだと思いますよ。自分で思い返しても、あれほど使えないサラリーマンはいなかったですもん」
営業成績は上がらない、車の運転もできない、字が下手だから宛て名書きも無理、それでいて態度は横柄、名前も大袈裟(ちなみに本名である)。
あるとき、まだワープロが珍しいころ、初期に発売されたワープロを使い社内報に文章を書いた。当時、付き合っていた彼女が、それを見て「面白いじゃない」と褒めてくれた。
「他人に褒められたことなんてないですからね。もしかしたら、俺には文章を書く才能があるんじゃないかと勘違いしたんです」
すぐさま、短編小説を一篇書き上げ、ある小説雑誌の新人賞に応募してみた。初めて書いた小説である。発表された雑誌を買ってみると自分の名前がゴシック文字で、太く印刷されていた。二次選考を通過したということである。最終選考には落ちたのだが、「やっぱ、才能あるじゃん」と確信を深めた。
ここから、サラリーマンをしながら、小説の習作を書きつづける生活に入り込んでいくことになる。二十五歳のときであった。
「昼休みや電車での移動時間はすべて原稿の執筆に当ててました」
新人賞に応募しつづけるが、なかなか、作品が認められることはなかった。良くて二次選考通過。それ以上には進まない。
そんなとき、ある営業所に配属され、ここの所長からは、いままでに経験したことがないほど嫌われた。嫌がらせに次ぐ嫌がらせ。毎日、出社するたびに怒声が飛ぶ。
自分の非力さは分かっていたものの、「いくら何でもなあ」と思いはじめた。
知り合いの不動産屋に相談に行ったところ、宅建(宅地建物取引主任者)の資格を取れば仕事になると言われ、一年間、宅建と、試験科目がいくつか共通していた行政書士の二つをターゲットに勉強しつづけた。
一年後、無事、二つとも合格し、晴れて辞表を叩きつけて、住んでいた社員寮を引き払い、とりあえずは実家に戻ったのである。
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