節談(ふしだん)説教と呼ばれるものがある。仏教の説教に節や抑揚をつけ、喋りと節回し、それに身振り手振りさえも加えて教えを説く手法である。演目の一つとして「親鸞聖人伝」などもあるぐらいだから、すでに語りの芸だとも言えるのだが、しかし、あくまで「説教」、どちらかというと宗教の足場に重心を置いている。
この節談説教から新たな芸能が生まれていく。たとえば、比重を芸能のほうにかけた説教節と呼ばれるものは後に説教浄瑠璃とも言われ、「山椒太夫」「信徳丸」「小栗判官」などの有名な語り物も作られる。この流れは、浄瑠璃、浪曲などにもつながっていく。
戦国時代から江戸初期にかけて、美濃国で生まれた浄土宗の僧侶、安楽庵策伝は自らの説教を音曲の方向へ向かわせず、つまり説教節へと向かわせず、「笑い」をまぶすことで、広く庶民に理解させようとした。
これが「落語」のはじまりであるとされる。
このように、落語をはじめとする日本の民衆芸能の背景には仏教が色濃く塗り込められているのである。
ならば僧侶が落語を語ってもおかしくはないし、さらに落語家が僧侶になっても何の不思議ではないのである。
岡山県小田郡に住む吉田宥禪(ゆうぜん)は、高野山真言宗のお寺である四王山多聞寺の副住職である。住職は、宥禪の義父にあたる。つまりは婿としてお寺に入ったわけである。
結婚を機に、真言宗の僧侶としての資格を得て、それで寺へと入った。それが一九九三(平成五)年のこと。宥禪、二十九歳の春である。
それ以来、お寺の法事などをこなしつつ、檀家との付き合いも深めていっている。
一方で、講演の依頼も多い。僧侶というと、まだまだ地方では名士の一人である。
この日も、地元の食品衛生協会が主催する食品衛生指導員の研修会で話すことになっていた。場所は、簡易保険保養センター、いわゆる「かんぽの宿」である。
車で向かう宥禪、すでに法衣を着けた格好で運転する。剃りあげた坊主頭に、百キロはあろうかという体躯。顔つきは柔和、これで大きな袋でも担いでいれば布袋様である。
かんぽの宿で主催者側の挨拶を受け、しばし待機した後、研修会の会場へ。四十数人が集まったところに、紹介を受けて登場する。テーマは「まず一歩」と書かれている。
演壇に立ち、会場をぐるりと見回した後、にこりと破顔し、おもむろに話しはじめた。
《私ども坊さんも、失敗はたくさんありますな、正直なところ。それもお葬式の大事なときに犯すことがあります。ずいぶんと前のことです、初めて導師といって中央でお経をあげる役を仰せつかったときですわ。お経を読んで、撞木を叩き、「故人を偲びまして合掌、礼拝」、そう告げながら二尺ほどの数珠を取り出し、さあ、拝もうかとしたところ、ブチッ、と。数珠の糸が切れて、水晶の珠がそこらへんに散らばりました。平気な顔で、何事もなかったかのようにお経を拝みましたよ。でも、実は水晶の珠が気になって仕方ない。何しろ二十万円の数珠ですからな。お坊さんというのは、器用なものなんです。拝みながら、片手でさりげなく水晶を拾っていく。それも懐の中で、ひとーつ、ふたーつ、と数えながら。けっきょく百二個しかありませんでしたけど》
と、ここで会場がどっと湧く。
喋りは流暢、笑いのツボを抑えているから、聞き手はぐいぐいと惹き込まれていく。
《さて、私は大阪生まれの大阪育ちです。僧侶になる前、落語家の道に入りました。どうして落語家になろうかと思ったかと言いますと、日本の古き良き文化、それも庶民の文化に触れたかったからなんです。九十四歳で健在の祖母の影響が大きいんでしょうな……》
ここから、宥禪の話は、いかに日本の伝統文化が豊かで優雅で含蓄に富んでいたか、昔話を例にとりながら、よどみなく進んでいった。
*
「さっきのあれ、ウソじゃないけど、実は大学に入るまで落語って聞いたことなかったんですわ」
自宅である多聞寺に戻ってから、トレーナーに着替えた宥禪は、暑い暑いとウチワで仰ぎつつ、くつろいでいた。
「何しろ、私、高校時代はフォークソング部ですから。ええ、アリスのファンでね。ダイエー京橋店にサイン会で来たとき、三人に握手してもらいましたよ」
一九七〇年から七五年あたりまで、フォークソング全盛の時代。吉田拓郎や井上陽水、かぐや姫が先陣を切り、その後にアリスや中島みゆき、荒井由実(現・松任谷由実)らが登場する。「ニューミュージック」と呼ぶと、ちょっと違う。やはり「フォークソング」なのだ。
桃山学院大学へ進学後も当然、フォークソング部に入ろうとする。ところが、部室を覗いてみたら、あまりの陰々滅々とした雰囲気に「こら、あかん」と思ってしまう。暗いのは耐えられない。
その帰り、校内の小高い丘で「笑」と染め抜かれた法被を着た一団に遭遇する。やけに明るい。何だ、こいつら。フォークソング部の暗さに触れた後だっただけに、余計に明るく感じてしまった。聞くと落語研究会、いわゆるオチ研だったのである。
宥禪、知っている落語家はテレビCMでおなじみの笑福亭仁鶴しかいなかった。しかし、そのオチ研の明るさに惹かれ、ついつい入部。やがて、落語に触れるうちに、その魅力に取りつかれてしまう。
とにかく猪突猛進型なのだ。凝りはじめると、とめどない。先輩のもつ有名落語家の噺のテープを借り出してはダビングして、毎日、聞きつづけた。ある先輩からは三味線を教えてもらい、寄席囃しもこなせるようになった。当時の芸名が「地獄屋権兵衛」である。
ただ、どっぷりと落語に浸かりながらも、疑問が湧いていた。二十歳を迎えるころである。大学生という身分を保証され、そのかたわら落語に耽溺しているだけである。傍からみれば、自堕落な生活を送る大学生でしかない。
もともと潜在的に持っていたのだろう、「自分を律する」ことへの欲求が膨れ上がってきたのである。
落語、厳しさ、禁欲的……となれば、内弟子しかない。
決断すると、すぐさま退学届を出した。もし学生のまま弟子入りを頼みに行ったら、甘えが出るはずだ。退路を断つ、そこからスタートしようと考えた。
では、誰に弟子入りするのか?
意中の師は、いた。当時の桂朝丸、いまの桂ざこばである。
「好きでしたねえ。独演会を聞きにいって、感動しました。威勢がいいし、語り口もいい。明るくて、僕の目指すのはこんな落語だと思いましたもの」
忘れもしない一九八三(昭和五十八)年十二月二十七日。ある落語家の弟子を通して入手していた朝丸の住所を訪ねる。大阪の千里中央。すでに日が暮れていた。
朝丸はまだ帰っていなかった。外で二時間待った。そのうち、朝丸が大きな車で帰ってくる。
「弟子にしてください」
しかし、頼まれたほうだって困る。その夜、朝丸が出る予定だった寄席まで連れていかれ、車中、いろいろと話を聞いてもらった。朝丸は言った。
「オレを育てたのも、兄ちゃん(故桂枝雀)を育てたのも桂米朝言う人や。弟子入りするなら、米朝師匠の元へ行ったほうがいい」
いまから思うと、体よく断られただけなのかもしれなかった。しかし、宥禪は年が明けて、成人の日(当時)の一月十五日、地図を頼りに米朝師のもとへと向かった。
またしても、直談判である。大学も辞めてきた、行くところがないのです。ぜひとも、内弟子にしてもらいたい、と。
米朝師はすぐに返事をしなかった。親と相談をして、改めて親とともに来なさい、そう言った。
宥禪、すでに両親には「落語家になる」と告げていた。父親は「どうせ、止めてもいくのやろ。なら、後悔しないように精一杯やれ」と言っただけだった。
二月九日、米朝師の元へ母親を連れて、再度、うかがった。
この日、晴れて桂米朝の内弟子となることが許されたのである。芸名は、桂米裕とつけられた。 |
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