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琉璃玉の耳輪 原案 尾崎翠 小説 津原泰水

第1回 プロログ──その1

 飼われている犬は祖先をたどればチベットに行き着くという、掃除のモップに似た愉快な犬だった。公博には初対面から愛想がよく、ゆいいつそのお蔭で彼は緑洋ホテルを気に入っていた。ほかは一切を退屈に感じている。
 政治において進取の気性に富んでいると世評される父――桜小路伯爵は、家のことにはいささか無頓着で、三十路を前にして遊び惚けている一人息子に眉をひそめたためしもない。いまだ子供と思っているふしがあって、降るほどの縁談を彼が片っ端から断るさまにも、「母親が美しいから比べてしまうんだろう。先方にはお気の毒だがこればかりは仕方がない」とむしろ頬をゆるませている。
 伯爵の所感は、ある意味で真相を突いていた。伯爵夫人茘枝(りえ)は公博の実の母ではない。彼が十代のとき父が迎えた後添えである。いかなる素性の女性とも公博に説明はなく、ましてや極度に病弱だとかで長きにわたり同室することを許されなかったが、当時庭から窓向こうに眺めていた神々しいまでの美貌が、思春期の少年に与えた影響といったら計り知れない。
 今は世間並みに挨拶をかわし、互いをいたわり、ときに冗談を云い合いもする母子のふるまいだが、それでも義理の母親の、歳月を超越した凛たる容姿に、まるで電気に触れたようにはっとなる瞬間が公博にはあった。娶るならそれ程の女性という思いは、確かに胸の底にある。
 支配人が気取ったつもりでつまらない文学者の名前を付けていたので、公博は犬を勝手にモップと呼んだ。そのうち自分が呼ばれていると気づいて、くるりとこちらを向くようになった。ホテルの裏手は灌木に満ちた丘となり、急角度に迫り上がっている。上はなかなかの別荘地だと聞いたが、延々と迂回路を行ってまで見物したいとは思わない。朝食前にただホテルの敷地内だけ散策するつもりで、相棒の首輪から革の引き紐を外した。一口に敷地と云ってもゴルフ場もあれば馬場もあり、それらを望みながら歩けば充分な運動になった。
  「おおい、モップ」
 歩調を合わせてくれるとばかり思っていた犬が、丘の急斜面を一気に駆け上がった。公博の声に止まりはしたが、下りてくるでもない。ついて来いとでも云わんばかりに見下ろしてくる。
 人目あらば華族然とした態度を心がけている公博だが、辺りを見回し、ここに悪戯心を起こした。ツイードの裾をまくり上げると、同じく犬になったつもりで灌木を掴んでは丘を上りはじめた。モップは安心したように凸凹の斜面を跳ね、やがて木陰に姿を消してしまった。
 「どこまでも追っていくほど僕はお人好しじゃないよ。今はただ退屈だから上っているんだ」公博は独り言ちた。「飽きたら勝手に下りてしまうからね。お前はどこかの別荘に飼われるといい」
 日一日と春めいていく日射しに萌えはじめた雑草が、靴底を滑らせる。額に汗するほどの運動の末、不図小径に出た。地の人々が近道として踏み分けた跡だろう。ホテルの緑屋根がすっかり下方にある。馬場を巡る馬が小さなからくりのように見える。一級の眺望だった。
 冬枯れのままの草叢が音をたてて動き、狭間から同じような生き物が顔を出したので公博は大笑いした。むろんモップである。
  「この景色を僕に見せたかったのかい」
 近づいて頭を撫で、ポケットから出した革紐を首輪に繋いだ。しかし犬は一向満足した様子ではなくて、小径の一方向へぐいぐいと紐を引く。従っていると足場はだんだん急になり、しまいにはまた、二匹の犬が斜面を這い上がっているような有様となった。
 とつぜん真当な路になった。舗装路ではないが、自動車がなんとか通れそうな程度の幅に整えてある。先に、こんもりした生垣と瀟洒な西洋館が見える。なるほど、ここが別荘地への迂回路の行き止りかと納得した。ではこの路を下っていけばいずれホテルに戻れる筈で、時間はかかるかもしれないが急斜面を転がり落ちるよりはましだ。
 洋館は裏庭を広く取った造りのようで、薄青く塗られた板壁が生垣のすぐ向こうまで迫っていた。殆どの窓には雨戸が掛かり、そうでない窓も重々しい天鵞絨のカーテンで塞がれている。無人だね、とどうでもよいような感想を犬に述べようとした刹那、最後の窓の端に白い輝きを認めて、はたと立ち止まった。
  カーテンを薄く開いた隙間に覗いた、それは人の顔だった。娘である。
 どういった面立ちとも、見て取る余裕はなかった。なにか、禁じられたものを目にしてしまったようで、身を隠そうか素知らぬ顔で通り過ぎようかと公博が迷っているあいだに、その顔は横向き、同時にカーテンが閉じた。ふたたび開かぬものかとしばらく佇んでいたけれど、今度こそ無人の館に戻ったように何一つ起こらなかった。
 網膜上の、小さな琉璃色の残像を青年は意識した。カーテンが閉じられる寸前の記憶に違いなかったが、その正体がなんなのかは彼に不明であった。

 桜小路伯爵夫妻が連れ立って姿を現すと、ホテルの食堂はいったんどよめき、それから不自然に静まり返った。
 「やはり部屋に運ばせよう。君は目立ちすぎる」伯爵が夫人に耳打ちする。
 「貴方がですよ」と夫人は云い返した。「とても庶民には見えませんもの」
 双方正しく、かつ双方が誤解していた。縞の三つ揃いで実業家を気取ったところで、その堂々たる立ち姿や片眼鏡は世人のいだく伯爵像そのものであったし、なるたけ質素にと夫人が選んだ青い細身のドレスは、かえって浮世離れした美貌を際立たせる結果をまねいていた。しかし、だからといって食堂の人々が、彼らを格違いの――悪く云えば酔狂な滞在客と悟った訳ではなかった。嗣子公博の、日頃の放蕩が遠因だったのである。
 同じ食堂に、甲賀一助、乙津(おつ)二助、丙部(へいべ)三五郎――互いに親戚関係にある、三人の若い紳士がいた。紳士といっても実体は、親の資産を食い潰して平然たる、無軌道な遊民に過ぎない。日頃から横浜南京町の悪場所に入り浸って、女給や売笑婦に金をばら巻いて粋がっているのだから、その辺のぐうたらよりよほど質が悪い。
 そんな彼らが桜小路公博の顔を見知って、身分も承知していた。接点は横浜南京町のある有名人だったが、この仔細はのちに語られよう。即ちお喋りきわまりない彼らを情報源に、桜小路家の人々が敢えてこの平民的なホテルでの余暇を楽しんでいることは、滞在客の殆どが知るところであった。
 「まあ、なんと思われてもいいじゃありませんか。こういう気軽なホテルで羽根を伸ばしたいと仰有ったのは貴方なんですし」
 「ここではゴルフだけでよかった。折角だから泊まろうとまで云いだしたのは君だ。ましてや庶民に混じって食事などと――」
 「部屋で食べるのには飽きました。食事は大勢のほうが美味しいんですのよ、ご存知でしょう」
 伯爵はやや憤然となったが、夫人がボオイの案内に応じて歩みだすと、ひとつ吐息してその横に並んだ。夫妻が案内されたのは、よりによって遊民たちの隣のテーブル。さすがの三人もぎょっとして口を噤み、ただそうしているのも不自然と思ったか、まるきり無関係なテーブルに視線を送って噂しはじめた。
 「素敵な美人だね、あの洋装は」と一助。「僕は現代的鞠美人って奴は、嫌いさ」
 「なるほど。お注文通りの、直線的美人だね」と二助が小声で同意する。「ところでいったい、いずくの佳人やら?」
 伯爵家の話題とは逆に、従業員から聞きだしでもしたのだろう、三五郎が得意げに、「君はまったく社会的知識のない男だね。あれが、有名の岡田卓三検事の令嬢――いや珍しい令嬢ゆえに有名なんだが――明子といって、東京探偵社に勤めている女探偵さ。女探偵の嚆矢というところから、技倆(うで)のいいところから、その方面の人たちに将来を嘱望されているんだ」
 女探偵という響きの物珍しさからか、伯爵夫人の視線がちらりと遊民たちのほうに向いた。それから、ゆっくりと岡田一家のテーブルに――。
 「公博は」と、そのとき伯爵が訊ねた。
 夫人ははっと良人を見返し、「犬と運動してくると書置きがありました。お昼のゴルフにはお供するそうです」
 伯爵は納得して、差し出されたメニューに視線を落とした。夫人の目は再び岡田一家に注がれた。
 検事はざっくりしたカーディガン姿。よく見ればあちこちに毛玉が浮いた代物で到底洒落ているとは云いがたいが、私利私欲を遠ざけ公益に尽くしてきた法曹界の人には似つかわしい。夫人も、暮し向きは豊かだろうに余程の倹約家なのか、古ぼけた袷に着たきりの羽織。
 かたわら娘の明子は、男の服を仕立て直したような前衛的な洋装で、 素性を聞かなければ普段は当て所なく銀ブラしているモダンガールにも見えたことだろう。女探偵と分かってしまえば、なるほど聞込みにも尾行にも有利な実務的な服装と思えた。
 「早朝、遠乗りに出ていたようだね。どこまで」という父の問掛けに対して、
 「梅園まで」と、まるで怒っているように素気ない。
 「梅はどうだった」
 「咲きはじめていました」
 「何色の――」
 「すべて紅梅です」
 「そうか」娘の態度に慣れている筈の卓三も、どこか面食らっている。「それにしても、このたびはよく休みがとれたものだ」
 「先週、先々週と、倍働きましたから。結婚詐欺師と汚職官吏を警察に突き出し、毒殺犯を断罪し、家出人を一人、お宅へと連れ戻しました」
 「そんなに忙しくて躯のほうは大丈夫かい」
 「健康そのものです」
 「しかしなにだね、それでは恋愛に費やす遑もないね」
 明子はポタージュを掬う手を止めた。父の顔を直視して、しかし眉一つ動かさず、「御座いません」
 父娘のぎくしゃくしたやり取りを夫人は見慣れているらしく、静かに笑んでいる。
 「なんだか、熱海なんぞに誘って申し訳なかったようだ」
 「いいえ、久々に乗馬を練習できて満足です。ゴルフも見学できました。夜はまた玉突きでも練習します、仕事で玉屋に出入りする日もありましょう」
 「感心なことだ」と洩らした卓三の顔に、育て間違えた、とでも云いたげな苦渋の色がにじむ。
 ときに東京探偵社では、さすが名検事、我が子の育て方にさえ一点の曇りもない、というのが専らの評判だった。卓三は篤志の人であり、それ以前に正義の人であり、仕事に於いても日常に於いても信念を貫く強靭な魂の持主だった。ゆえに明子に対する厳しさも薫陶も、十全だったのである。
 もっともこんな声もあるにはあった。卓三の不断の熱意は、ときに彼をして、相手の情状を酌量するのを忘れさせる。我が子の重大な情状についても、彼は忘れてきたようだ――女であることを。生まれつき聡明敏活の明子は父の理想をみごとに体現して、いつしか自分の性別をも忘れてしまったようである、と。

 果たして、その通りであったろうか。明子は本当に齢二十五のこの日まで女であることを忘れ続けて、今や骨の髄まで冷徹な探偵と化しているのだろうか。否、実のところ運命の時はすでに訪れていた。遠乗り、ゴルフ見学、玉突き――ホテルでの彼女の行動の一つ一つがその事実を示していたが、女心の漣にばかりは、さすがの名検事の眼力も及ばずにいたのである。数日前の、ホテル内の玉突き場――。
 「こっちを狙っているんですか」
 儘ならぬ玉の動きに苛立ち、がむしゃらにショットを重ねていた明子に対し、不意に脇から声がかかった。他の人の入室に気づかぬ程、いつしか夢中になっていた。彼女が頭を動かそうとするのを、
 「ああ、そのまま」と声は制した。「折角だからそのまま打ってごらんなさい、いまやろうとしていた通りに」
 男勝りに激しい気性が、瞬時のうちに燃えあがった。棒の先を合わせていた玉を力任せに突く。玉は別の玉に当たって奇妙にバウンドし、それから台の縁に弾かれた。外に飛び出していった。明子は目で追う。玉はすでに彼の手の内にあった。
 「ほうらね」その人は莞爾としていた。莫迦にした風ではなく、ただ予言の的中を喜んでいる子供っぽい笑みだった。「そんな角度に突くものではない。それに力も強すぎます。いつか羅紗を破ってしまいますよ」
 明子は呆然と相手を見返した。「なんと、桜小路伯爵がおみえのようだ。きっとお忍びだから気づかぬ顔にて通すように」という過日ロビーでの父の訓示が、耳朶に甦っている。そのとき明子の視線は長椅子の伯爵らしき人物でも貴婦人でもなく、彼らの傍らに起立した青年に吸い寄せられていた。なぜ赤の他人をそんな風に見つめてしまうのかは、彼女自身にも量りかねた――。
 「ご指導ありがとう御座います。お詳しいんですのね。玉突きの先生かしら。それとも力学のご研究でも?」と空惚けてやった明子に、
 「暇にまかせて遊んできただけのこと。自慢にも及びません」と彼は一礼し、「桜小路公博と申します。実業家の父、それに母と、避寒で滞在しています」と、あっさりと姓名を明かして彼女を驚かせた。そんな調子でいながら平民に化けおおせたつもりでもいる。なんたるお坊ちゃんぶりだろう。
 「岡田明子です。私も両親と避寒に」
 「貴方は体格に恵まれているし、運動神経も良さそうだ。必要なのは先生ですよ。僕がお教えしましょうか」南国のダンスでも始めるように、後ろから身を重ねられ、
 「勿体ない」と明子は思わず逃れた。
 「何が」と公博は首をかしげた。
 「いえ、その――まずは理屈を分かってからでないと、却って習得に時間がかかってしまいますでしょう」
 「まったくだ。貴方は僕より余程理知的ですね。では、まず僕のショットをお見せしましょう」
 公博は上着を脱いで近くの椅子に掛け、シャツのカフス釦を外し、ネクタイも大きく弛めた。その優雅な所作の一つ一つから、明子はどうにも目を離せない。労働とは無縁な白く細い手を、彼は差し伸べてきて、「キューを」
 明子はおずおずと玉突き棒を渡した。同じ位置を握られ、自分の体温を悟られるのが、ただそれだけの事が恥ずかしかった。生まれて初めての、ひどく居心地の悪い、それでいて打ち消したくもない感覚だった。紅白四つの玉が、ぶつかりぶつかられる爽快な音。棒の先端を見つめる泰西彫刻のような横顔。
 男遊びに長けたフラッパーなら、粋な出逢いと自慢する程度の邂逅に過ぎない。それが、云うなれば無菌状態のまま花の盛りに至ってしまった明子には、前世来世も含んだ宿命を感ずるに存分だったのである。明子は今、過去になく感情的であった。等しく、過去になく哲学的でもあった。
 なにより散文的で、夢想的だった。彼女はまるきり生まれて初めて、正義の使徒ではなく、偏愛する一人に仕え彼から愛される歓びに浸る人生を、童話や映画の絵空事ではなく現実として、予感していた。
 ――それから二度、公博と接した。一度は馬場で、追いつ追われつ、しかしお互いに馬上から目礼を交わすのみで会話はなかった。いま一度はゴルフ場。明子はゴルフをしないが、キャディを伴いコースに出ていくニッカボッカ姿の伯爵父子を見掛け、自分も下見をするような素振りであとを追った。この時は僅かながら会話できた。
 「明子さん」と公博のほうから彼女の姿を発見し、手を振りながら近づいてきた。「貴方も一緒にまわりましょう」
 彼女はかぶりを振って、「まだ打ったことが御座いませんの。でも折角緑洋にいるのだから、一度はと」
 「貴方ならたちまち巧くなります。いや、先生次第かな」
 明子は柄にもなく、口許を隠してはにかんだ。
 「いますぐお教えしたいのは山々ですが、本日は父とコースに出なくては。しばらくご滞在と仰有いましたね。機を見て、きっとクラブの振り方もお教えしましょう」
 明子は頷いて、きっと、と口の中で復唱した。そして萌えはじめた芝の上を遠ざかっていく彼の姿を、いつまでも、すっかり消えてしまうまで見つめた。
 即ち、明子が玉突き場に出向くときその心はゲームになく、ゴルフ場を眺むるときスポーツになく、梅園に遠乗りして軽快な蹄の響きにも梅の色香にも躍ることはなかった。その目はひたすらに公博の姿を求めて、たとえ遠方にでも見つかれば夕の氷雨さえ温かく、見当らずば高々たる蒼天が星なき夜空に等しかった。人を死へといざなうことなき一点を除けば、その状態は病に他ならなかった。甘美な病であった。

 同じ頃、大阪は新世界署――。
 暗い廊下に複数の靴音が響いて、止まった。
 「警部補、こちらです。北前――おい北前」若く力強い声が響くも、応じる声はない。「北前龍子、起立して返事をせんか」
 「いい、いい。私から」老いた優しげな声が取って代わった。「久しぶりだな、石火のお龍」
 「あいな」鉄の格子で区切られた、狭い部屋から返り見てきたのは、黒繻子襟に丸髷の婀娜っぽい年増である。「田辺の旦那、お久しゅう。浅草署から遥々とご苦労さまです」
 「ついに起訴の運びと聞いて、その綺麗な顔を拝みたくなってね。どうだ、息苦しい場所を出て、ちょいと年寄りの茶飲み話に付き合っちゃくれまいか」
 「失礼ですけど旦那、少々焼きが回られたんじゃ御座いませんか」
 老刑事は失笑した。「それはお前さんの方だろう。張込みと気づかず財布を掏摸るなんて、昔のお前じゃ考えられない。ましてやその財布、後生大事に懐に入れていたとか。川獺の銀次と共に百人もの手下を従えていたお前が、今や一匹狼らしい」
 「狼でも女狐でも結構ですけどね、官憲の犬と取引するほど零落れてやしません」
 このアマ、と熱り立つ所轄の警官を、まあまあ、と田辺は諌めて、「お前から見たらまさに犬だろう。犬として生き、犬として老いたよ。不思議なものだね、この歳になると、同じ犬やら飼い主よりも、かつて追いかけまわした狸や狐や川獺とのほうが気心が知れているような気がしてくる」
 「そんな言葉で落されるような安っぽい女をお求めなら、横浜か神戸の南京町へでもお行きなさい。銀次を捉えるための囮役なんざ御免ですよ。おととい来やがれ」
 「誰が銀次を狙っていると云ったね。ペテン師は私の担当じゃない」
 じゃあ――とお龍の唇が動き、まなざしが揺れた。
 田辺は人差指を立てて彼女を黙らせ、「あとは別室で、二人きりで話そうじゃないか。なに、お前さんにとって悪い相談じゃない筈だ」
 お龍は田辺の誘いに乗った。万一に備えて手錠される屈辱に耐え、署内の一室で長年の宿敵と差向かいに坐った。逮捕されるのは初めてではない。しかし早々に証拠不十分で釈放されるのが常であり、それは彼女の美学でもあった。石火のお龍の綽号(あだな)は、宝飾品や財布を掏摸り盗る手際だけ示したものではなかった。被害者が失せ物に気づいて「あの女、掏摸だ」と騒いだとする。お龍は逃げも隠れもしない。「それがどうした」と啖呵をきりさえする。しかし警察に突き出され身体検査を受けて、私物以外の金品の出てきた験しがなかったのである。衆人環視のなか、まさに電光石火の早業で手下に獲物を渡してしまうとしか考えられず、人々の視線がその美貌に集中してしまうぶん、手下のほうは楽々立ち去れるという寸法だった。
 そのお龍が大阪であっさり捕らわれたと聞き、初め田辺は驚いたけれど、このところ抱えている案件と照らし合わせて腑に落ちるところもあった。そこで取り急ぎ鉄道切符を確保したのである。
 「旦那、たばこを一本いただけませんか。没収されちゃって」
 「喫わせるのは構わないが、忘れたかい? 私は生憎とこいつでね――」田辺は懐から使い込んだマドロスパイプを取り出した。「これでよければ貸してやろう」
 「お願いします」
 田辺は慣れた手つきで葉を詰めマッチの火を移すと、吸い口をハンカチで拭いながら立ち上がった。鎖で繋がった両手がそれを受け取り、小さな口をいっそう窄めて燻らせる。
 「ああ、美味しい」
 「喫いながら聞くがいい。このところ浅草に、お前さんそっくりの女が出没しては荒稼ぎしている。見目は違えど手口はまったく同じだ。犯人と分かっていながら起訴できない。左の耳に高価な白金の輪をさげているんで、きっと盗品に違いないと、卑劣ながらその出所を辿っての別件逮捕を考えたが――」
 「外れなかったんでしょう。子供の頃、親に無理やり付けられたとか」
 「さすが話が早い。そこで署内で付いた綽号が、耳輪のお瑤」
 「おや、一廉(ひとかど)に二つ名ときたもんだ」
 「お龍、手口を指南したね。そしてこいつは邪推だが、挙句に銀次を寝取られた。なぜってお前の手口は、熟練の手下ども抜きには成立しない。仕切りは銀次だ」
 「寝取られた? 老いぼれ犬の遠吠えにしても耳障りな。捨てた男が諦めわるく、代わりの女を探しただけのことでしょうよ」
 「どっちでもいい。お前さんがあの女を面白くないなら、それだけでいい。どうだね、逮捕に協力しちゃくれまいか」
 お龍はかぶりを振って、「日陰者には日陰者の仁義ってもんが」
 部屋には田辺とお龍の二人しかいない。しかし田辺は殊更のように辺りを見回し、小声で、「お龍、逃がしてやる。手伝ってくれたなら船を一隻用意しよう。お前は朝鮮へでも行って、どうだい、改めて女の幸せを掴むといい」
 お龍は笑った。「お戯れ。掏摸を捕まえるのに掏摸を逃がしてどうするってんです? くたびれ儲けじゃありませんか」
 「石火のお龍は引退だ。私から見りゃまだ小娘のお前さんだが、技倆の衰えは否めまい。その現実から目を背け、鉄格子の内と外を行き交いながら老いぼれるかい? それとも新しい真当な人生を手に入れてみるか。二つに一つだよ」
 拝むように持ったマドロスパイプを、女掏摸はじっと見つめていた。その目を上げて、「銀次は」
 「約束しよう、私の手で縄を掛けることはしない。聞けばあいつの許のチンピラどもは、みな飢えていた孤児を引き取ったものだとか。悪党ながら天晴な話だ。だから耳輪のお瑤さえお縄にし、奴が掏摸稼業から手を引いてくれれば私に文句はない。金持ち相手のペテンには今後とも目をつむろう」
 お龍は身を乗り出した。「約束ですよ、旦那」
 田辺は深く頷いて、「約束しよう」
(この項続く。次回掲載2008年1月中旬)

著者プロフィール
津原泰水(つはら・やすみ)
1964年広島市に生まれる。青山学院大学卒業。少女小説家としての活動を経て、1997年より『妖都』『ペニス』『少年トレチア』等、本格的な幻想小説を発表し、注目を集める。小社より『悪い男』『ブラバン』が好評発売中。
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