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あの娘をたずねて三千里 東陽片岡

第2回 昭和63年東京都文京区白山

 それにしても文京区つーのは、やたらと老人が多い地域であります。新しく住み始めた古い白山のアパートには四世帯入っていまして、そのうちふたつが一人暮らしのおバアさんでした。
 ガラガラッと木戸を開け、まるで昔の日本映画に出てくるような、幅の広い木の階段をきしませながら上ったすぐ横が、ワタシの部屋です。荷物の整理をしてっと、さっそく隣のおバアさんが様子を見にきました。
 「お兄ちゃんはどこから来たの?」と聞くので、「青森から来ました」と言ってやりました。遠くから来たことにしておけば、何かと親切にしてくれると思ったからであります。
 ワタシは東京出身ですが、なぜか本籍は北海道旭川市になっております。以前、CB450に乗った下っ端白バイ隊員に、スピード違反で捕まった時、免許証を見せたら許してくれた事があります。「東京はクルマが多いから気をつけてな。頑張るんだぞ」と励ましてくれて、とても感動したのでした。しかし、それ以降この手が通用した事はありません。

 「そう、青森のどちら?」
 「えっと、下北半島の、陸奥市です」
 なんつって口から出た地名は、思いつきではないのです。なぜかつーと、テレクラで知り合った陸奥市に住むおネエちゃんと、文通をしていたからであります。
 そんなデタラメをおバアさんは信用したらしく、なにかと食べ物を持って訪れるようになり、困ってしまいました。老人との長話はうっとうしいので、そのうち居留守をつかうようになりました。
 一階の階段横には、子供が四、五人いる家族が、二部屋を借りて住んでいました。ダンナは体が悪いのか、着物姿でいつもブラブラしています。働き者の奥さんは、ふくよかな方で、オッパイに帯をくい込ませて赤ん坊を背負い、テキパキと家事労働をこなしていました。仲宿、十条、上板橋と、生活感丸出しの下町で育ったワタシは、見慣れてるとはいえ、こういう貧乏臭さにはいささかウンザリで、あいさつをする程度の関係にしておこうと決めました。

 強風が吹くたびにグラグラと揺れる、このボロアパートに越して来たのが、真冬の二月であります。暖房は、禁止されている石油ストーブなのですが、燃料屋が遠いので困ってしまいました。おまけに銭湯も遠く、グッと行く回数が減りました。考えてみっと駅からも遠いし、近くに飲食街はないしで、すさまじく不便な物件であります。
 こういった生活のバヤイ、やっぱし足が必要になってきます。つい数年前に、ヤマハの650ccバイクを友人に売ってしまったので、何か欲しいなと思っていたら、斉藤君の奥さんがずっと乗ってた、同じくヤマハの750ccを買わないかと言ってきました。XJ750Eという、DOHC・四気筒の俊足バイクであります。それ程傷んでないそれを、七万円でいいつーのですから、やっぱし持つべきモノは友人の奥さんだと思いました。
 以前乗ってたオンボロ650ccは、時速八十キロでハンドルがブレるという欠陥車でしたが、XJは時速百数十キロまで淀みなく加速します。かつコーナーリング性能も良く、もっと早くから四気筒ナナハンに乗っておけば良かったと思いました。

 仕事は順調で、やたらとギャラの高い、広告だらけの訳のわからん雑誌の割り付けも、頼まれるようになってきました。ですので思いきって事務所を借りる事にしました。といっても編プロの片すみの机を、月三万円で借りただけであります。
 しかし、そこの環境は実に素晴らしく、コピー機や大きなトレスコープという専門機械が揃っており、何の不自由もなく作業が出来るのであります。おまけに鉄筋コンクリートマンションの最上階で、眺めも良く、日光浴でもしたくなるようなベランダまであります。
 事実、休日には真っ裸でサマーベッドに横になり、南国気分に浸らせてもらいました。つーのも、しばら風呂に入ってなかったせいか、チンポの裏が異常にカユくなってしまったので、ジットリと湿ったその部分を太陽に当てて乾かしていたのであります。この時だけは、スーッとカユみがなくなるのが不思議でした。
 しかし、それも根本的な治療にはならず、そのうち眠れない程カユくなってしまったのです。仕方がなく、薬箱から液体の水虫薬を出し、チンポの裏にポタポタと垂らしてみました。そしたらナント、すさまじい痛みと共に、チンポの裏の皮がビロ〜ンとめくれあがり、グジャグジャにただれてしまったのであります。それから一週間、三年前のホーケイシリツ以来の、チンポに包帯を巻いたとてもツライ日々を過ごしたのでした。もちろんその間、オナニーは出来ませんでした。

 つー訳で、ナナハンで曙橋にある鉄筋の事務所に通い、ほいでもってきらびやかな新宿高層ビル群の夜景を眺めつつ仕事が出来るというこの現実に、ワタシは心身共充実しきっておりました。なにしろ数ヶ月前までは、日の当たらない駒込のアパートで作業をしていたのです。突然の夕立の雨漏りで、割り付け用紙がビチャビチャになった事もありました。また、定規や写植見本帳などを風呂敷に包み、自転車で入稿に追われるエロ雑誌の編集部へ行って作業するという、暗い日々を送っていたのであります。
 考えてみっと、ワタシももう三十歳になっていたのであります。アパート&事務所代で、毎月八万円が消えていくぐらいの生活は当然だという気がします。お風俗通いも、ピンサロやヘルスといった安い業種から、ホテトルへとグレードアップしていきました。また、事務所の近所に四谷荒木町という飲み屋街があるのですが、そこの「まさ吉」という九州料理の居酒屋にも通い始めました。
 
 こうなってくると、ギリギリの労働で時間を確保し、シャケ弁を食いながらイラストを描くというアーチスト志向は、ほとんど消え失せてきます。もはや頭ん中は仕事のデザインと、酒と女で一杯であります。格好つけて無理して聴いた外国音楽にも、急に嫌気がさし、宮史郎やクールファイブといった演歌&おムード歌謡にシビれる体質に変ぼうしてしまいました。
 そして当然の結果として、スナックへも通い始めたのでした。今まで死ぬ程嫌いだったカラオケにも、初挑戦してみます。三笠優子の「浪花の夢」つード演歌をいきなし歌ったら、まるでハチャメチャだったので我ながら呆れ果てました。やはり聴くと歌うのとでは大違いであります。他のお客さんの為に、しばらくやめといた方がいいと思いました。
 
 その頃、前年から定期の仕事として請け負った某スポーツ月刊誌の編集長とも、たまに飲みに行くようになりました。内田さんというこの編集長はワタシより三歳上で、普通の状態が怒ってる顔に見えるという、パッと見が、すこぶる恐い方であります。
  ある時、八月にタイ旅行のツアーがあるので、一緒に行かないかという誘いがありました。ワタシは別にタイランドには興味がないし、そんな所へ行く金があったら、ホテトルやツーリングに行きたかったので、困ってしまったのであります
(つづく)

著者プロフィール
1958年東京生れ。多摩美術大学デザイン科卒業。卒業後、雑誌のレイアウターやエロ本グラビアのモデルをしながら自費出版本「おゆき」を発行し話題に。94年「ガロ」にて『やらかい漫画』でデビュー。以来、畳の目を一本一本描く昭和の匂いの漂う画風で底辺に生きる人々を描き、独自のスタイルを確立。漫画以外でも、花村萬月、岩井志麻子より御指名で挿絵も担当。著書に『お三十路の町』『段ボール低国の天使たち』『うすバカ風俗伝』など。

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