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ネオ人生幸路 早川いくを

第6回 堕ちる涙にこぼれる涙

 悲しい時、欧米人は陽気な音楽で悲しさを払拭しようとするという。だが日本人は悲しい時には悲しい音楽を聴き、よりその気分に浸る傾向があるらしい。                 

 そう言われてふと頭に浮かぶのが、小泉八雲の怪談「耳なし芳一」である。平家の怨霊は芳一を連れだし、琵琶を弾くように言い渡すのだが、彼らがリクエストするのは「平家物語」の中でも、彼ら一族が滅びゆく「壇ノ浦」のくだりなのだ。
 怨霊たちは毎夜芳一の奏でる琵琶に聴き入り、幼い安徳天皇が入水する一節に至って感極まって涙する。自分たち一族が滅びゆく様子に涙しながら聴き入るのだ。
 こういった感興はやはり日本人ならではのものなのかもしれない。仮にローマ帝国に果敢に戦いを挑んだ勇者スパルタクスの亡霊が芳一に取り憑いたとしても「自分たちが滅んだ時の様子を歌って聴かせよ」などという注文は絶対しないに違いない。我々日本人はかように大昔から泣くことが大好きな国民なのだろう。                 

 泣くことが好きな我々日本人は、昨今において益々その度合いを高めてきたかに思える。
 閉塞感漂う、などと評される今の時代だが、元気のない時はいっそ悲しさに浸りましょうというわけか、はたまた浮き世の辛さを笑い飛ばすエネルギーも枯渇したか、世はまことに「泣き」ばやりである。
 映画やテレビでは挫折するわ失恋するわ恋人が死ぬわ家族が死ぬわ夜空に叫ぶわ感動秘話だわ感動の再会だわ感動のドラマだわと涙涙で大忙し、日本全国津々浦々夜も日も明けず感動と涙である。毎日国民の涙腺から大量に流される涙を集めて水車でも回せば、原発三基分くらいの電力は確保できるだろう。
 図像や文字を注視するうち、無意味な図形に見えてしまう脳の知覚エラーを「ゲシュタルト崩壊」というそうだが、こう毎日感動感動感動と言われているとそのうちこのゲシュタルト崩壊が起こり、もはや「感動」の二文字が何を意味するのかさっぱり思い出せなくなりそうだ。                 

 「泣けます!!」
 CMで広告でポスターで、最近はこんな謳い文句がでかでかと掲げられている。
 だがこういったポン引き風の宣伝文句には泣くことの恥じらいや痛切さ、しめやかさは微塵もない。
 汽笛が鳴る。思い詰めた顔で船を見上げる美しい女。その表情は何かに必死に耐えているかのようだ。やがて船は港を離れ、岸壁から遠ざかる。
 「徹さん…!」
 女はかすかな声で叫ぶと岸壁に駆け寄る。水平線を見据える女の瞳はうるみ、やがて伏せた睫毛から白い頬にこぼれるひとしずく……。
 貴石の価値もあろうかと思われるこんな純な涙は現代ではもはや絶滅寸前、イリオモテヤマネコと同じぐらいに貴重であり、国家が保護すべきである。現在のGNP(※Gross NAMIDA Product=国民総涙量)に比べれば、こういった純粋の涙は雀の涙ほどもないかもしれない。現代では自発的な涙なぞ流す者はなく、
 「それって泣けますか…」
 「感動を下さい…」
 などと呟き、涙やら感動やらのおこぼれに預かろうとする涙乞食や感動ゾンビばかりが世を徘徊しているようにも思える。                 

 悲しみ。それは本来なら誰も経験したくはない、辛い感情の筈である。痛切な思いのはずである。そしてそんな身を切られる思いに流した一粒にこそ、宝石のきらめきがある。
 そして悲しみの涙は、本来ならじっと押し隠し、誰にも見られないうちに白いハンカチなどでそっと拭うべきものであり、こんな涙こそ真珠の輝きを真の涙と言えるかもしれない。しかし現代ではうっかり真珠の涙など流そうものならマスコミがすぐ飛んできて「うっわーッ、これお値段はおいくらですかーッ!?」などと聞かれてしまいそうだ。
 だがいわゆる「お涙頂戴」式のストーリーは昔から連綿と作られ続けてきており、「泣き」を売りにした映画ドラマ芝居小説、数え上げたらきりがない。戦前の「少年倶楽部」の美談記事にさえ
 「これを読んで泣かずば鬼!」
 などという惹句が添えられていたりもする。女性だけでなく青少年にも涙を誘う手法は通用したのだろう。昔から涙には値札がつけられており、涙の商品化自体は別に糾弾するにはあたらない。
 だが虚構で流す涙にも最低限の敬意という物を払う必要がありそうだ。平家の皆様と同じく我々は涙を娯楽としているのだが、それは胸に納めておくべき暗黙の了解事項である。悲しみとはあくまで粛然たるもので、それを楽しむなど恥ずべき事と表向きは認識すべきだろう。
 私の知人のある女性などはテレビの感動悲話なるものを見て「あー泣いた泣いた」と言ってビールをかっ食らって寝るそうだ。現代の涙は単に塩分を含んだ体液に過ぎず、落涙はもはや放屁や射精と同等の、出ればスッキリの生理現象にその身を墜してしまったかのようだ。この涙の凋落ぶりには涙を禁じ得ない。本当は泣きたくなどないのだけれど、
 「アラあたくしったら涙なぞ見せてとんだ失礼を…」
 などと慎ましやかに申し述べるのが涙への礼儀、正しい悲劇の観賞作法というものだ。「今日は思い切り泣こう!」などと言ってビデオをセットしたりするのは「一発抜くか」と言ってエロ本を開く行為と変わりがない。                 

 がっついた野良犬の如く泣きや涙が求められる現在、映画やテレビでは挫折して失恋して恋人が死んで家族が死んで泣いて夜空に叫んだりする安い悲劇は乱造される。市場原理である。
 だが涙の下落を止め、幼稚化の一途を辿る日本のエンターテイメントの質を復活させるため、我々は一念発起してこの手の特売もの、ひと山いくらのお徳用悲劇などから積極的に目を背けるべき時期に来ているのかもしれない。                 

 などと言いつつ、私は先日映画を観て頬を濡らしてしまった。だがそれは感動の涙ではない。入場料の高さと内容の低劣さに思わず流した悔し涙である。

著者プロフィール
1965年東京生まれ。文筆業、書籍デザイナー。多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。『へんないきもの』『またまたへんないきもの』がベストセラーに。監訳『黙って俺についてこい文句がある奴ァ爆撃だ』もある。

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