ある寺のせがれから聞いた話だ。
その寺には、一般の人から持ち込まれた心霊写真の束が重箱に入れて保管されているのだという。
それらの写真は、いずれもそこらの心霊本の類などまったく歯がたたぬほど恐ろしく、生々しく、そのあまりの不気味さに、住職はそれを封印し、決してひとには見せないらしい。
そう言われると見たくてたまらなくなるが、やはり絶対見たくない、心霊写真。
現代科学では未だに説明不可能なこの心霊写真を、卑近な視点から考察してみたいと思う。
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いきなりだが、まず霊のファッションである。
霊体は服を着て写っている場合がある。背広や着物、場合によってはメガネをかけていたりもする。
一説によるとそれは故人の死に際の装いなのだそうだが、魂の他に「服」という物体も霊化するということなのだろうか。
日頃は実直な営業課長の山田さん。草津の温泉へ社員旅行で来たはいいが、宴会の席ではつい飲み過ぎて弾けまくり、浴衣の尻をガバとはしょり、志村のバカ殿カツラで歌って踊ってやんやかやん。しまいには女子社員にセクハラまがいの大騒ぎ。ところが急激なアルコール摂取が災いしたかストレスの蓄積か、あっという間に心不全。旅先で帰らぬ人となってしまった。
長年真面目一筋で通してきたのに、たった、たった一回バカをやって逝ったのが心残りか悔やまれるのか、その後オフィスで写真を撮ると、社員の背後にバカ殿かつらをかぶり悄然とたたずむ山田さんの浴衣姿が…。
「死んだ時の服装」で霊が現れるなら、こんなバカ殿心霊写真だってありえない話ではなかろう。
他にも、ミッキーマウスの着ぐるみ姿で死んだ場合、暗黒舞踏の最中に死んだ場合などはどうか。ストリッパーが死ぬと、腰に天狗の面をつけた霊が現れるのだろうか?
だが実際、そういった珍妙な姿の心霊写真というのはお目にかかったことがない。服という物体も霊化するなら、霊の装いにももっとバリエーションがあっていいはずだ。
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心霊写真には大抵顔が写っているのだが、中には手や足だけのものもある。
しかし、それ以外のものは見たことがない。肉体の一部分だけが現れるなら、へそや尻だけ、もしくはもっと見たくない箇所が出現する場合だってあるかもしれない。もしそんな写真を撮ってしまったら、我々はどうすればいいのだろう。
新幹線の窓から霊が覗いていた、という話がある。さぞかし恐ろしい体験だったろう。だがその状況を客観的に眺めると、霊は新幹線と共に時速350キロメートルの高速で宙を移動していることになる。
霊はどれほどのスピードで移動できるのだろう?
アポロ宇宙船の引力脱出速度は秒速約1万1千メートルである。宇宙飛行士たちの守護霊は、やはりその速度で月へ行ったのだろうか。
月面はその温度が昼夜でマイナス170度から120度まで変化する、極寒と灼熱の真空地獄である。宇宙飛行士の背後に浮かぶ守護霊は、死ぬような思いをされたのではないだろうか。心配だ。
そして遠い未来、人類が太陽系にその版図を広げ、星々に植民した場合、それでもやはり霊は存在するのだろうか。
軌道上ステーションに霊? 火星に霊? タイタンやガニメデに霊が…?
心霊協会なるものでは、「動物霊」を否定しているそうだが、このジャンルの草分け的存在「恐怖の心霊写真集」(中岡俊哉著)にはゾウさんの心霊写真も載っている。
ゾウは群れの仲間や家族が死ぬと、その骨をいとおしむように鼻で撫でさする。そしてその骨を形見にでもするかのように持ち帰ったりする行動も観察されている。ゾウは「死」を理解できる動物なのだという人もいる。
「死」を理解し、霊となれる唯一の動物がゾウなのだとしたら、上野動物園には戦時中、陸軍の命令で餓死させられたトンキーや花子の霊がまだ漂っているに違いない。
「心霊写真集」を例に挙げたが、よく考えるとこれは大変な書物である。
霊が写ってしまった写真は、お祓いをしたり、供養して焼いたりすることもある。つまり写真というモノ自体も、霊的な要素を帯びた、ある意味神聖な対象物となるわけだ。
だがそのような写真をこともあろうに、画像データなどに変換しDTPソフトでレイアウト、あまつさえ大量に印刷して商品として売り出すなどという行為自体に問題はないのだろうか。
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そもそもなぜ霊は写真になど写るのか。
あるカメラマンは言う。人間の目は外界を流れる映像としてとらえているが、カメラはその外界のひとコマを何百分の一という高速で切り取る。対象が同じでも、目とレンズは全く違うものを見ているのだ。だから人間に知覚できないモノをレンズは捉えることができる。
つまり我々の周りにはコンマ何秒という単位で、霊が現れたり消えたりしているということか。偶然その瞬間にシャッターが切られれば、霊は写る。なるほど理屈としては納得もできる。ならば日頃から動体視力を訓練し、60分の1秒なら見切れるという格闘ゲームファンの皆さんなら、ひょっとしたら瞬時に現れる霊を目視できるかもしれない。
だが別のカメラマンにその仮説をぶつけて見たところ、彼はかぶりを振ってこう言った。その理屈でいうと、日々写真を大量撮影する写真スタジオでは心霊写真発生率が普通よりずっと高くなるはずだが、そんな話は聞いた事がない。なるほどそれも理屈である。バーチャファイターで訓練しても霊は見えないようだ。
もし知人や親族の霊が写っていたら、なるほど霊は何か言いたいことがあるようにも思える。
しかしそれにしては、写真の霊はあらぬ方向を見ていたり、画面の端っこに遠慮がちに写っていたり、ちっとも主張というものが感じられない。
「このお方は亡くなった後も娘さんの身を案じ、健康に気をつけるように、と、そうおっしゃってるんですねえ」
テレビの霊媒師はこんな風に解説する。しかしそれならなぜもっとはっきり意志表示しないのか霊さん。話すことがままならないなら、ジェスチャーとか何とか、それなりに方法があるのではないだろうか霊さん。
それとも人間が霊になったら、もはや意思とか意識というものは霧消してしまうのだろうか。
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ずいぶん前だが、「ラジオ公園通り」といういかにもNHKなタイトルのラジオ番組で、「激論!霊魂は存在するか!?」という討論会をやっていた。
ゲストは漫画家のつのだじろう氏、宗教ジャーナリストの室生忠氏、そして「心霊バスターズ」と称する男性。
つのだ氏は、「20年研究してきて何度も霊を見たし、奇怪な体験もした。霊魂は必ず存在する」と主張。室生氏は、ストレス過多の現代人の潜在意識による現象だと言い、心霊バスターズ氏は、「霊はダウンジングにより発見できる。古い大木や沼の近くにいる事が多い。霊を水の入った容器に封じ込めると、その水のpH(ペーハー)が酸性に傾く」といった知識を披露していた。
「その水は飲めますか」などという無邪気な質問をかますオヤジや、「侍の霊が古語を使わないのはおかしい」などと理屈をこねて、つのだ先生を不機嫌にさせる若者などが客席から奔放に発言。お笑い芸人の心霊漫談が緊張した場を和ませたところで、誰の主張が正しいか客席の投票で決定! という、いささか強引な進行で、番組は幕を閉じた。
こういった心霊に関する議論はともすると「守護霊が見えます」「そんなものはインチキだ」「人魂は絶対ある」「単なる放電現象に過ぎない」といった内容に終始してしまう。
このような議論自体、科学的なものなどではなく、単なる娯楽であることは先刻承知だ。だが、もし真面目に心霊を研究対象にしている学者がこれを聞いたら、さぞ苦々しい思いをするのではなかろうか。
必要は発明の母であり、戦争は産業の父である。もし心霊現象の解明が国益にかなうと判断されていたなら、とっくに米軍あたりが霊界との通信ぐらいは実現していたかもしれない。だがその有用性は未だ認められないため、物質文明がこれだけ発達しても、心霊は未だに恐怖の対象であり、我々が抱く恐怖心は百年前の人のそれと変わらない。
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しかし、その一方で我々は心霊を貪欲に消費している。
夏ともなれば、映画、本、雑誌、テレビなどで引っ張りだこの心霊の世界。昨今は「リング」「呪怨」といったジャパニーズ・ホラーも世界へ輸出され大当たりをとった。欧米のそれとはひと味違った理不尽な恐怖こそジャパニーズ・ホラーの真価であり、鉱脈だったのだろう。タイでは特に大受けらしく、それに触発されたか今度はかの国から、タイトルもそのものズバリの「心霊写真」という映画も上陸した。これら心霊の及ぼす経済効果というのは、総合すればアフリカあたりの小国家の国家予算に匹敵するかもしれない。
そういった意味では、心霊はエンターテインメントとしての有用性を立派に確立しているともいえる。
その心霊のエンタメ化は、年ごとに肥大化しているように思える。
そして世はまさにビジュアル時代、小型で使いやすいカメラは一般にもどんどん普及している。ならばこれからさらに心霊写真は多く撮られ、様々なメディアを通じて我々の目に触れるようになるのだろうか?
罰当たりな気もする。そして何より、人間の最も原初的な恐怖という感情さえ、メディアや商業主義の中で飼い慣らされ、画一化してしまうのではないかという危惧も覚える。
だが心配には及ばない。心霊写真はこれから増えることはもうないだろう。カメラの主流はデジタルになってしまったからだ。
デジカメの普及に伴い、大手メーカーはついにアナログカメラ部門から撤退、フィルム製造も打ちきりにすることを発表した。
デジカメで心霊写真が撮られたという話はいまだ聞いたことがない。何故だろうか。
同じ写真機とはいえ、そのアナログな光学式な仕組みにこそ、霊という曖昧な存在の入り込む余地があったからではないだろうか。
画素、データ、演算、プログラム。科学の発展が闇を駆逐するのは寂しい、といった手あかのついた言説をここで繰り返すつもりもないが、霊というものが、生前の意識や感情の残滓を、現世に残り香のように漂わせているだけの哀しくもはかない存在なのだとしたら、すべてが数値で処理される電子世界にはもはやかれらの入り込む余地はないのだろう。
デジカメの普及は、曖昧な霊というものの存在を、再び彼らの住むべき曖昧な世界に還す役割を果たすのかもしれない。
だが、その気もないのに写真に写ってしまい、商品として消費されてしまうよりは、その方が霊の皆さんも心安らかなのではないだろうか。
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などと、何やら悟った風な結末で原稿を結んだ夜、あろうことか私は心霊を目撃してしまった。
通りの向こうから迫ってくる、闇に青白く浮かぶ女の顔を見たとき、私の心臓は跳ね上がり、体は凍りついた。
「ひッ!」
自分でも驚くほど甲高い、オンナのような悲鳴が口から漏れた。
だが呪縛は数秒で解けた。硬直した私の横を、携帯メールを打ちながら自転車に乗った女子高生が通り過ぎていく。その顔は携帯画面の光で下から照らされ、青く光っていた。「顔を下から照らすとコワイ」などという、子供だましな現象に、四十男の金玉は勝手に縮み上がっていたのだった。
にわかに羞恥を覚えた私は、誰も見てないのに虚勢を張るべく夜道でひとり毒づいた。
あ、危ねえじゃねえか、前も見ないで! 自転車に乗ってまでメールかよ! まったく最近の若いモンは!
そんな事してっと、そのうち車にひかれて本物の霊になっちまうぞ! |