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東京「花」散歩 岸本葉子
東京は意外なほど、花の名所が多いのです。四季折々、花が途絶えることがありません。それらの花をもとめて、岸本葉子さんが歩きました。

第6回 菊

 秋の花といえば菊、菊で思いつく名所は、菊人形で知られる団子坂。界隈に居を構えていた漱石、?外の小説にも、たしか出てきた気がするし。せっかく同じ東京に住んでいるのだから、一度は見てみたい。
 インターネットにて検索したら少々手間取り、今は「谷中の菊まつり」となっていることがわかった。団子坂のは明治末期に衰退してしまい、今は団子坂と不忍通りを渡った反対側、谷中の大円寺というお寺で継承されているらしい。
 団子坂の菊人形は、あまりに有名で、自分はまだ行ったことがないけれど、変わらずずっと盛況なのだろうと思っていたが、それほど昔にすたれていたとは。
 復活させたのが昭和五十九年というから、大正の十四年を単純に足しても、実に七十年以上の長きにわたって途切れていたことになる。菊人形を作る技が、よく絶えてしまわなかったものです。
 日取りは、十月に入って間もない土、日。菊にはちょっと早すぎない?
ホームページには、新暦では九月上旬の重陽の頃には花が咲かないためとあり、
「するとこの日が、旧暦で重陽の節句にあたるのか?」
 と調べたら、この日はまだ旧暦の八月。ホームページでも新暦と旧暦との関係はあいまいで、どうやら一帯の「谷中まつり」と日を合わせているらしい。
 それでも、ホームページでわざわざことわりを入れるあたり、昭和もおしまいの方ではじまった催しでも、菊といえばやはり、重陽の節句を意識するのだなとわかって、興味深かったです。
 私にとっては、菊は十一月のイメージ。遠い山から吹いてくる小寒い風に揺れながら、という小学唱歌が刷り込まれているせいか。
 団子坂にこだわらなければ、東京で菊の花を見られるところはたくさんありそう。なので、吹く風が小寒く、そろそろ菊びよりと感じた日、たまたま行われていた「浅草菊花展」に出かけていった。この秋はじめて襟元にストールを巻いて。
 場所は、浅草寺の境内とのこと。久しぶりの浅草だけれど、地下鉄を降りても何番出口か迷わない。ガイドブックを手にした人たちがわんさかいて、一方向に流れていくので、ただついていくだけでいい。
 ほとんど何も考えずして雷門に到着すれば、わんさかの度は増して、いろんな国の言葉が聞こえる、人力車夫は呼び込みをする、ツアーバッジをつけた団体客や修学旅行生が代わる代わる記念写真を撮っている、さすがは日本を代表する観光地と、圧倒される。

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 その混雑の中を、カーディガンにズボン姿で買い物袋をさげたおばさんは、門の前を通るとき、いったん止まって、境内に小さくお辞儀をして過ぎていくのです。しばらくの間立っていたら、そうした人が何人も。世界中から人の来るお寺も、地元の人には日常の中で信仰されている。
 雷門のすぐ脇には、四、五階建くらいのホテルがあって、窓を開け放して布団を干しているのが、妙に生活感があってよかったです。
 仲見世通りには、造花ならぬ造りものの紅葉が飾られ、すっかり秋。雷おこし、人形焼き、煎餅、お箸、扇子、和服と中国の絹のガウンとを合わせたような着物もどき、犬猫用袢纏、入れ墨ふうシールといったお土産の売られる中、菊を探して進んでいく。雷門のあたりにも、菊がどうしたといった貼り紙、看板は特にはなかった。

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 仲見世通りを抜けた右奥に、おお、あれか、朝顔の展示をほうふつさせるつくり。葦簀で囲い、白っぽい半透明のビニール板で被って、紫の布を張り渡した小屋がいくつもある。
 手前には、緋毛氈を敷いた床几や赤い傘が据えられていて、藍の作務衣の若者が、紙コップのお茶をせっせとふるまっている。無料接待所らしい。
 こういう和やかにして穏やかな雰囲気にひかれる私は、つい紙コップに手を伸ばしたくなるが、まずは菊だ、お茶は後。
 小屋の中で、近くにあり、いちばん人目を集めていたのが、福島県は二本松市から出品のもの。
 懸崖づくりは、これぞ菊の展示に来たら必ずやあるだろうと、私が期待していたもので、たくさんの花が前にせり出し、垂れ下がるように咲いている。奥行きは、私が腕をいっぱいに伸ばしても届かなそうなほど。ひとつひとつの花も大きくて、私の握り拳くらいある。色はすべて黄色。立て札によると二百四十輪あるのだとか。

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 もしかして、もとは一本? 下を覗いたら、まん中に太い茎が一本あり、草というよりほとんど木のようでした。
 同じ小屋で隣りにあるのは千輪咲き。これも握り拳大の花が、立て札によれば、三百六輪、半球をなしている。中央が高くて、外側に行くにつれ低くなる、同心円状に咲いているのです。驚きは、もとの茎が一本なのに、色とりどりなこと。梅の紅白源平のような、不規則な混じり方ではない。内側から順に、赤紫、黄、白と変わり、しかも紫四段、黄三段、白二段と、秩序正しく並んでいる。

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 説明によれば、配合を考えながら、台木に継ぎ木をしていくそうで、一年二か月かけて育てたとか。
「会場に来ていただくと五百輪以上の三色千輪咲きがご覧いただけます」と、二本松へと誘っている。チラシの写真によると、二本松には菊人形もあるらしい。
 二本松から出品の小屋には、黄色い小菊を松の盆栽のごとくに仕立てた鉢もある。掌ほどの幅の幹が、菊の茎を変形させたものか、あるいは岩か何かをとり合わせたているのかは、陰になっていて見極められず。

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 懸崖づくりも千輪咲きも盆栽づくりもきっと、朝顔と同じく、満たすべき要件や評価の基準があることでしょう。見どころのポイントといったものの掲示がないのは、もの知らずの私には頼りないが、そう感じてしまうのも、頭で鑑賞する悪しき癖か。
 黄色い小さな菊が、縦にたくさん花をつけたものを、束ねたふうな形のもあり、後から調べたところによれば、杉づくりと言うそうだ。菊を松のようにしたり杉のようにしたり、いろいろと趣向を凝らすものですね。

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 二本松の出品以外の小屋は、仕立てはオーソドックスで、茎がまっすぐ上に伸び、てっぺんに大輪の花を載せている。花びらが何段にも重なって、ふっくら丸く、まん中だけ黄色で他は白いのは、まるで蒸したての大きなお饅頭。やわらかくて温かそうで、思わず両手で包みたくなる。
 花は、針金のようなものを二重の輪にして支えられ、花との間にさらに、薄いスポンジふうの緩衝材が、挟まれているものも。その扱いのデリケートさは、まるで桃の実に対するがごとし。茎にも添え木があててある。
 色は、花菖蒲ほどはとりどりではなく、赤紫か黄か白に収まる。形も、朝顔の変化咲きのようには奇天烈なものはなく、ほとんどが球状。球状のいちばん下の花びらだけやや長めに垂れたものや、花びらが細い管で放射状に広がり、先だけ丸まり玉をなしているものも。

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 案外ふつうで、ほっとした。
 菊はどちらかというと、一輪一輪の花をいかに変わった形に咲かせるかより、茎を含めた全体の姿を、どんなふうに作るかに、園芸の方向が行ったのでしょうか。と結論づけるのは性急で、これも後から調べたところによると、ガーデニングの時代、江戸時代には、やはり盛んに品種改良(良と言っていいのかどうか)がなされ、各地で独特な菊ができはしたそうです。糸状に裂けた弁が撚れたり縮れたりからんだりする伊勢菊、細い弁が立ちあがって筆のようになる嵯峨菊。江戸菊にいたっては、咲いた後の花びらが少しずつ渦を巻く動きをするため、人々は花が芸をするといって楽しんだとか。

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「芸をさせるのは蚤くらいまでにしておいたら? 何も植物にまでさせたくたっていいのでは」
 とは思うけれど、現代の物差しを昔にあててはいけませんね、きっと。
 それらは今は古典菊と呼ばれ、多くは作られていないそう。浅草の展示にも、見られなかった。
 代わりに目をひいたのは、田原小学校の第三学年が育てたという鉢の展示。プロの腕前を感じさせる二本松に比べて、みごととは言えないけれど、後ろに貼られた小学生からのメッセージが、すみずみまで読みたくなる。「れん休中に水やりをがんばりました」「いっしょうけんめいそだてたきくが、もっと大きくなってほしいです」。何かこう、園芸の心の原点を感じさせる。

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 田原小学校って、地下鉄銀座線でここへくる途中にあった、田原町の駅の近くなのかな。
 無料接待所に戻り、床几にてお茶で一服。ひと回りしてきたばかりの小屋が見渡せる。目の前には、朗らかにお茶を喫する若者、ありがとうと片言の日本語で礼を言う外国人観光客、カップを手に語らう人々。そのすぐ足もとまで来て、何かをついばんでいる、鳩や雀。すぐ後ろには、朱の柱に二重の瓦屋根を載く宝蔵門、背景には五十の塔。

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 いいシチュエーションでお茶を飲んでいるなと、しみじみ思う。もう少し季節が進んだら、外でこんなふうに座っていると指先が冷たくなりそうだけれど、「小寒い」くらいのいまは、紙コップのお茶でもほどよく温まる。

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 冬になったら、熱々のお汁粉があるようなところへ散歩に行きたいな。あっ、それは花より団子の発想。花散歩だから、花を優先させねば。
 この会場の菊は、二本松と田原小学校の他は誰が持ってきているのか、いつから、どのようにはじまったのだろうと、無料接待所の脇に机を出している観光ボランティアのおじさんに聞くと
「ずいぶん昔からやっているよ、いろんなところから持ってきてるよ」
 とのことでわからず、「浅草菊花展事務所」なるテントの方へ行けば、二人いる係員は、花の世話をしたり、自転車で菊を買いにきている近所の人たちの、花選びを手伝ったり、荷物カゴに鉢を載っけたりと忙しく、機会を得ませんでした。

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 せっかく来たのでお参りする。本堂は、屋根を葺き替え外壁を塗り直す大修繕中で、カバーで被われた上に掲げられている作業スローガンは、さすがに浅草寺、「観音様のもとで感謝と喜びの念をもって全工期無災害を達成しよう」。そう、浅草寺のご本尊は観音様。でも秘仏で、おそらく誰もお姿をじかに拝んだことはないのですね?

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 境内には年中行事が写真付きで紹介されており、なんとも菊供養なるものも、十月にあるではないか。ご本尊に菊の花を供えて、加持祈祷を受けた菊と交換し、持ち帰るそうで、黄色い小菊の束を手にしたご信徒さんたちがいる。
 菊花展もそれと関係している?
 自ら多くを語らぬ菊花展ゆえ、帰宅後調べてみたところ、菊供養の方は明治三十一年の重陽の節句よりはじめられたそう。なぜに観音様に菊かといえば、古代中国の王に子どもの召し使いがいて、その子が誤って罪を犯し、山へ追放されることになったが、不憫に思った王は、観音経の一部を授け、子どももまた忘れないよう菊の葉に書き写しておいた。その菊の葉に滴る雨露を飲んだ子は、長寿を得、さらにはそれが流れ込んだ谷川の水も霊薬となった。そういう故事を、明治三十年に、ときの貫首様が話したのがきっかけで、次の年から寺の行事に定められたのだという。
 菊花展のいわれはこれよりぐーっと時代が下り、昭和二十七年。戦後の焼け野原から立ち上がった浅草の人々が、菊供養に合わせて参道に花を並べたのがはじまりだと。ということをもう少し宣伝してもよさそうなのに、声高に言うなんて下町の人にとっては、粋ではないのか、あるいは宣伝しなくても、浅草寺は人が来るからか、会場ではうたっていない、浅草菊花展なのでした。
 貫首様の紹介した故事でもわかるように、菊はもともと中国から不老不死の薬草として伝えられた。小学唱歌にもあるせいか、私はなんとなく日本に自生していたものと思っていたが、そうではなかった。
 渡来は奈良時代の末ともいわれる。その頃の完成とされる万葉集には、菊を詠んだ歌は一首もないそうです。
 宮中で重陽の節句が行われるようになったのは、平安時代以降で、花びらを浮かべた菊酒を飲み、女官たちは前の夜から、菊に真綿を着せてひと晩置き、露と香りを含んだそれで肌を拭い、長寿を祈ったという。
 薬草としてとり入れたものを、花が美しいので観賞するようになるのは、朝顔と同じで、江戸時代のガーデニングブームに巻き込まれていくのも、古典菊のところでふれたとおり。
 では、そもそも私が菊見を思いついた、団子坂の菊人形は、いつ頃から?
 これも意外や、わが散歩ガイド『江戸名所花暦』にはないのです。菊の項で挙げられているのは、まず巣鴨。記述はそこそこ長くて「植木屋所々にあり。文化のはしめの頃、菊にて作り物を工夫せしなり。植木やならても作りたるなり」。巣鴨は昔植木屋の多いところだったとは聞くが、その巣鴨で、植木屋でなくとも作っていたそうだから、プロ、アマの別はなく庶民がこぞって熱中していたさまがしのばれる。某(なにがし)という人は稼業は木綿屋だが、庭に菊を作って見物に供していた、という例を挙げている。
「しかるに作り物二、三ヶ年か間、盛にして九十軒余に及へり」。このようすは、前にも参照した『東京の原風景』という本にも記されていて「酒食の店数百軒出来、巣鴨村開けしよりの繁栄」だったとか。
 同書の著者、川添登さんはこれを「地域ぐるみの総合的なレジャー開発」だったといえようとしている。そこには霊薬として菊に接していたときの畏れは、もうない。
『江戸名所花暦』の巣鴨に戻れば、その作り物の「工(たく)ミの細やかなること、実に奇といふへし」で「あらましをいふに、獅子の子落し、布袋の唐子遊ひ、汐汲の人形、九尾の狐、文覚上人の荒行、富士見西行なと、いろいろの花と葉をもって工ミあけたり」。挙げてある例には、今の私たちにはすぐさま像を結びにくいものもあるが、『東京の原風景』の説明で補えば、多数の黄菊で虎を作るとか、白菊ばかりを集めて民家の屋根まで鉢を並べて富士山を作る、といったことをしていたらしい。
 この状況を川添さんは、一本の菊に丹精を込める段階から、同種の菊を大量生産、大量消費する段階へ進んでいたとみる。私もそう思う。
 変化咲きのように、交配してみてこんなめずらしいのができた! と面白がっていたときは、自然を愛好する健全な態度かどうかは別として、造化の妙に対する驚きが、まだあっただろう。が、菊の作り物になると、『江戸名所花暦』の著者が、菊「にて」といみじくも書いているように、菊は単なる資材である。変化咲きなどせず、同じ色、同じ形に咲いてくれた方が、扱いやすくて、むしろ歓迎されるくらいでは。
 文語文を読みなれないので、どう解したらいいかわからないが、文化のはじめ頃工夫された菊細工が、「しかるに作り物二、三ケ年か間、盛にして九十軒余に及べり」とあるのは、『江戸名所花暦』の書かれた頃にはもう巣鴨の菊の作り物のピークは過ぎ去っていた? 本の出たのは文政十年、西暦でいうと一八二七年。文化は一八〇四年から一八年だ。「かかることも後には口碑に残るのみなれは、比に十か二、三をしるす」との文で、巣鴨の菊の記述は結ばれている。われもわれもといっせいに流行りの花を育てても、じきに跡形もなく消えることを、この文を書いているときの著者は、経験的に知っている。まさしく大量消費の時代に、この頃はすでに入っていたのだ。
 川添先生の説明によれば、江戸時代に菊細工の流行は二度あって、文化の次は弘化年間。西暦一八四四〜四八年。地域は拡大し、団子坂まで広がったのは、この二度めのときらしい。数年ではやくも飽きられたが、団子坂で作られた人形は出来がよいと評判になったのと、巣鴨よりも町なかに近く人を集めやすかった。
 作り続けられて明治を迎え、作り手も著名な植木屋に絞られ、専門化。文化の頃は「植木屋ならても作りたるなり」だったのが、ここへ来て分化、すなわち作って見せる側と、見て楽しむ側とに分かれ、庶民は後者となった。

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 明治八年にはじめて木戸銭をとって見せる。逆にいえば、それまでは無料で見せていたのだ。文化の流れの記述でふれられた木綿屋某も、その例にもれない。「酒食の店数軒」というから、地域にはおかねが落ちたけれど、当人にとっては、自分の作った菊細工を愛で賞賛されればうれしいという、私的な楽しみのためだったろう。
 木戸銭をとるに至って興行化。また、財政的基盤が、菊人形の出来をよくしたのか、再び評判を得、明治十七年に小屋掛けされて、雨でも観客を動員できるようになり、明治二十五年には、菰張りの小屋から本格的な建物に。ちょうど今の仲見世通りで、両側のお店にさまざまな土産品が並んでいるのを、全部菊人形にした感じでしょうか。漱石や?外によって描かれたのは、この頃のようす?
 人形の衣裳となる花を供給していたのも、はじめは巣鴨だったのが、市街地化により、さらに遠い王子や板橋へと離れる。作り手≠享受者という図式に、(菊の)育て手≠(菊細工の)作り手≠享受者という図式が付け加わったのだ。
 また、菊人形といえども「顔が命」だから、著名な植木屋にはお抱えの人形師がいて、当代の歌舞伎役者に似せた首を、一年中作っていたとか。
 それほど盛んだった団子坂の菊人形だが、活況に目をつけた名古屋の業者が、明治四十二年に東京に乗り込んできて、より多くの観客を動員できる両国の国技館や浅草の公園で、双方が興行を打ち合うに至り、団子坂はすたれ、やがて壊滅してしまった。
「明治末年に衰退」と、散歩に行く前知ったひとことにも、背景には花と人との関係をめぐるそんな変遷があったのです。
 続く大正期、菊人形は復活しなかった。そのわけは察せられる。代わりにいろいろな大衆文化や娯楽が、人々の暮らしに入ってきたから。「園芸」から「興行」へと変わったとき、庶民にとって同じ欲求を満たすものは、何も花ではなくてもよくなったのだろう、きっと。
 なんだか、深く溜め息をつく。今回は、帰ってからが、思うところの多い散歩だった。
 浅草に行って菊人形がなかったときは正直、ちょっと拍子抜けした。でも、歴史をひもといてみた後は、散歩するには浅草でよかったのかもという気がしています。興行とは無縁のシロウトっぽさや、ご本尊様とも関わりがあって、庶民の信仰と結びついた菊のありかたに、ほっとするものを覚えて。

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 一方で、私の中の好奇心と、多少は文化的な関心から、菊人形というものをいちどは見てみたい気持ちもあることはある。二本松市と福井県の越前市が有名で、それと並んで知られていた大阪府枚方市のは、近年ついに中止になってしまったとのこと。技を継承する志はあっても、採算を維持していくのは、やはりたいへんなことのようです。

著者プロフィール
岸本葉子(きしもと・ようこ)
エッセイスト。1961年鎌倉市生まれ。東京大学教養学部卒業。日常生活や旅をテーマとしたエッセイで多くの女性の共感を得てきた。2003年に発表した自らのがん闘病記『がんから始まる』が大きな反響を呼んだ。著書は『週末ゆる散歩』『ゆる気持ちいい暮らし術』『自問自答』など多数ある。小社より『ちょっと古びたものが好き』が好評発売中。

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